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廃仏毀釈は日本でも中国でも民衆から始まったことではないことが判っています。常に政権側からの社会変革の運動として行われた。
中国では慈覚大師円仁が入唐したとき(平安時代初期)、廃仏毀釈の大波に飲み込まれました。円仁の記した「入唐求法巡礼行記」(ライシャワー訳)に詳しく書かれています。歴代の中国皇帝は新しい思想と技術を持ち込んだ仏教を保護しました。それは社会を規制した老荘、儒教思想でがんじがらめになっていた中国社会を少しでも風穴を空け、自由に政策を出来る部分を拡げたかったものと思われます。伝統的な風習による規制は大量の既得権を生みます。既得権を奪われた利権者は政権の変換時期の度に権利の復興を訴え続けてきました。中国の伝統的思想は老荘、儒教思想であり、外来の仏教ではない、と従来の皇帝による保護策による利権を次々に消し去り、現在は中国の社会ではその影響力は数少なくなりました。
日本でも聖徳太子の時代に多くの抵抗を排して、仏教を取り入れました。中国と違い、技術の遅れていた日本では仏教ともに入ってくる中国の新しい先進技術(政府運営策、その他の農業、工業の新技術)が必要であったからです。そのため、神仏混淆を深め、本地垂迹説を唱えて神も仏も同じものだと民衆に信じさせてきました。
しかし、中国でもそうであるように日本でも仏教寺院が神社の持っている利権を浸食してきました。利権を回復するため神社関係者の運動に乗ったのが岡山藩の池田光政と水戸光圀です。日本は神国である、仏教は外来思想であるから排撃しなけらばならないと運動し、民衆の信仰に入り込んでいた仏教を廃し、寺院をつぶしました。
だが、廃仏毀釈と神社合祀は常に対になっており、岡山藩、水戸藩では神社の整理も行われました。明治政府もその例を知り、運動としての廃仏毀釈を進めました。正式な政令は「神仏判然令」といい、神のものと仏のものをはっきりさせなさいという法令でした。これまで利権を浸食され続けた神官たちは「廃仏毀釈」と号して、寺院をつぶし、神社の利権を独占しようとしました。その利権を独占したかに見えた神官たちも、その後に行われた神社合祀令に寄り、明治政府に利権を奪われました。その経過は南方熊楠の論文により明らかであります。
中国の歴代皇帝が仏教を信仰し、中国の社会的規範を壊し、新しい政策を実行しようとしたように、現代の中国共産党も社会に厚く固まっている利権構造を壊すために「文化大革命」が必要だったのかもしれません。民衆の中には排外思想、国粋主義が貧しい民衆の中にかならずあります。政権側からの呼びかけによる運動は裏側に何か利権問題が有ると思って間違いないでしょう
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